特別寄稿


  明治の人

 福澤諭吉の漢詩について
                     礒野衞孝 
                              

 

平成の時代を生きている皆さんの中で、毎日のようにお世話になっている明治時代の人は誰でしょうかと質問されて、それは一万円札の福澤諭吉でしょうと答えた方は何人おられますか。クイズまがいの書き出しで少し恐縮ではありますがその福澤諭吉が百余首の漢詩を残しているお話しをさせていただきたいと思います。

最近のテレビ番組で明治を時代背景としているものが多くなりましたが、明治維新により開国はしたもののどのような社会を作ればよいか、行く先の見えない時代でありました。その時いち早く米国・欧州を見分して文明開化を訴えた福澤諭吉の功績は、非常に価値のあることであります。それから百五十年、幾多の変遷を経て平成の今、あまりにも欧米化され世界の混乱の渦の中に巻き込まれている現状であります。戦後七十年を過ぎて今度は逆に日本を改めて見直す時であるとも言われますが、福澤先生の言論、又詩文のように大きく前途を見据える目を養うことが必要と思います。

先生は天保五年(西暦一八三五年)九州の中津で生を受け、幼少の頃より漢学に秀でていたので二十歳で早くも長崎に蘭学の勉強に旅立ち、大阪へ移り緒方熟では塾頭を勤めた後、江戸へ出てからは次の時代である米語を習得されました。勝海舟の咸臨丸に搭乗して米国を見分し、引き続いて岩倉具視の欧州視察団に加わって、世界各国を知り、帰国後はいち早く開国論を主張し、独立自尊を唱えられました。政治論争にしばしば巻き込まれることもありましたが、終始学者として野に立つ態度で論文を発表し、慶應義塾を開いて子弟の教育に努められました。

欧米一辺倒のように見られがちな福澤先生ですが、明治十一年頃、四十四歳を過ぎてから、再び漢詩を作られるようになられました。ご自身でも書いておられるように、幼少の頃に習い憶えた韻や平仄を少しも忘れてはいなかったとのことです。福澤諭吉全集に百三十余首が載せられていますが、先生ご自身が半紙に墨書して、手作りの詩集風に纏められたものは約三十首に過ぎず、大半は知人への手紙や論文原稿の余白などにメモ的に残されたものが没後に全集を編集されるに際して各方面から集められたとのことです。

その内容は殆どが七言絶句ですが、詩人としての詩文というよりは、思想家として自分の感慨を述べたものが多いように感じます。美辞麗句にはあまり関わらず故事や比喩を用いて社会を写し出すような詩、或いは社会批判的な詩も多かったためか、現在まであまり評価はされていないような気がいたしますが、この百三十首は同時代の夏目漱石の二百八十首、森鴎外の百三十首に比べても、先生自身の考え方を模索する資料としては充分であります。

その詩を拝見してみますと、世の中のことを高所から眺め,何事にもとらわれない自由の目で作られていますが、当時は世情が混沌としていた時代であり、言論も政治の道具に使われることも多く、時代背景をよく理解した上で読む必要があります。

具体的にはやはり作り始められた明治十一年からの約十年間にかなり集中しており憲法論・帝室論等が発表され又、報知新聞発行等の政治的社会活動の他、横浜正金銀行創立の金融・経済面で活躍された時期であったので当然なことと考えられます。論文を書き終えられ一息つく時の感慨、又それにより社会が反応した時の感想、さらに知人友人に送られた詩も数多くあります。中には塾生との対話の中から作られた詩又、私的な面では二人の男子五人の娘との動向にも言及され、更には多忙な中で時々行かれた箱根の温泉の詩も含まれております。

さてここで福澤先生の詩集から何首かを紹介したいと思い読み返しておりましたところ、先生には年頭に詩を作られることが多くあることに気付きましたのでこれを経年的に選んでみました。併せて年表的な出来事を添えることにより、先生ご自身の心情が何か少しでも読み取れるような気が致します。

当時の社会情勢はどうかと申しますと、明治九年に廃藩置県が実行され、西南戦争が同十年に終わり大久保利通が同十一年に暗殺された頃で、伊藤博文を中心にして各種法律の制定、国会開催の準備が進められた頃でもありました。正に文明開化せんとする黎明期でした。その後憲法発布は明治二十二年 第一回国会は同二十三年 日清戦争は同明治二十七年と時代は移って参ります。(末尾の年表参照下さい) 

 

明治十二年(作者 四十歳)

    (つちの)(とう)新年

自出鄕園廿六春   (ふる)(さと)()でてより 廿六春

天時人事屈還伸   (てん)()人事(じんじ) (くつ)して()()

半生行路消無跡   半生(はんせい)行路(こうろ) 消えて跡なきも

一片雄心與歳新   一片の雄心(ゆうしん)は (とし)(とも)に新たなり

 

     又

日章映日吐紅霞   日章は日に映じて (こう)()()

朝麗東京千萬家   (あした)に麗わし 東京の千萬の家

春色不須洋上雨   春色 ()ず 洋上の雨を

扶桑本是自開花   扶桑(ふそう)はもと是れ (みづ)ら花を開く  

この時期、国会開設が叫ばれ、先生は「国会論」を執筆されて英国式議会制度を提唱されましたが、時の社会情勢に受け入れられなかったという背景があったと言われていますのでこの年の除夜の詩も見てみたいと思います。

 

  明治十二年(つうちの)()除夜

除夜

今是昨非嗟己遲   今は()なるも(さく)非なり ()()(なげ)

春風秋月等閑移   春風秋月 等閑(とうかん)(うつ)(あるがままに過ごす)

頭顱四十六齡叟   頭顱(とうろ)(骸骨→引退の意)四十六歳の(そう)(としより)

老却一年無一詩   老却して(すっかり老い)一年に(いっ)()

しかしながら実際には十数首の作があることを銘記すべきであります。この詩にある頭顱(とうろ)は中国の故事に基づく詩語で生身の人間でない即ちすでに引退した身であると書かれています。明治十二年頃は先生の弁論は多岐に亘って展開された時代であり、何を以て引退の意を表明されたのか問題となるような事態も見当たりません。しかし何事かがあって先生の心境に変化があったことと推測されます。

 

明治十三年

(かのえ)(たつ)元旦

屠蘇傳飮入佳   屠蘇傳飲(でんいん)して 佳辰(かしん)()

七子欒伴二親   七子(しちし)団欒して 二親(にしん)(ともな)

笑吾廿年如一日   笑う 吾が廿年一日の如く

無災無害又逢春   無災無害にして 又 春に()いしを

 

この年の元旦の詩で初めて正月らしい風物が読みこまれていますが、それは飽くまでも表面上のことであって何か大きく内に秘すものがあるようにも感じられます。さて次の明治十四年と、十五年の元旦の詩は見あたりませんがこの時期は井上薫や伊藤博文の権力に対抗して政治特に国会問題等で世論を喚起するため、報知新聞を創立し、論陣を張ったので、極めて多忙であったためか、又別に作られない事情があったのではないかとも推測されます。   

 

明治十六年

(みづのと)(ひつじ)元旦

無所思有所思   思ふ所無くも() ふ所あり

半生心事笑吾非   半生の心事 吾が()を笑う

兎烏五十等閑去   ()()(歳月)五十 等閑(とうかん)(なおざり)()りて

天命如何尚不知   天命 如何(いかん) ()お知らず

 

同じく明治十六年

(みずのと)(ひつじ)元旦試筆

十方無碍太平春   十方(じっぽう)(天下)(さまた)げる無く 太平の春

負郭寒門亦吉辰   ()(かく)の寒門(三田にある我が)も (また) (きっ)(しん)

淑酒酌終時試筆   ()() ()み終りて時に筆を(こころ)むれば

縱橫自在氣如伸   縱橫自在 氣 伸ぶるが如し

【註】十方(じっぽう)・・・八方と上下であらゆる方向すなわち天下のこと              

     ()(かく)・・・()(かく)(でん)の略で、郭すなわち城を背にしたを持つ人の

意であるが、先生の住む三田に掛けた詩語かと思われる   

     寒門・・・城門の北は寒くすなわち貧しい家の意      

報知新聞の発行は大事業であったと推察されます。それというのも当時の民憲論は非常に根強く、政府との調停の役割をされる先生の立場も苦しく政府との意見の相違から数年の間に二度三度と発行停止処分を受けたとのことです。

 

明治二十一年

戊子(つちのとね)除夜  

孫子團欒膝下親   孫子団欒して 膝下(しっか)(した)

笑談聲裡歳將新   笑談聲裡(せいり) (とし) (まさに)に新たならんとす

休呼家僕鬼兮外   ()ぶを()めよ家僕(かぼく)は外」と

畢竟我廬無癘神   畢竟(ひっきょう) 我が(いおり)(れい)(しん)(疫病神)なし

 

明治二十二年

     (つちのと)(うし)一月初夢

富士徹邊泛寶船   富士の(てつ)(ぺん)に 宝船を(うか)

玉茄卵化産鷹鸇   玉茄(ぎょくか)卵化して鷹鸇(ようせん)(たか・はやぶさ)()

歳端初夢先如此   歳端(さいたん)の初夢 ()(かく)の如し

卜得本年亦奇年   (ぼく)し得たり 本年も(また) ()(ねん)なるを

  【】玉茄(なすび)俗に言う一富士二鷹三茄子のこと

明治二十二年と同二十三年の除夜・元旦の詩は見当たりませんが、先生はこの頃已に政治活動から身を引かれておられ、慶應義塾の運営に力を尽された時代であったようで、日常の作詩の数も少なくなり、比較的に穏やかな生活を過ごされたようであります。

 

明治二十四年

辛卯(かのとう)一月罹流行咸冒戯賦   

(かのと)()一月 流行咸冒に罹り 戯れに賦す

東漸風光日日新   東漸(とうざん)風光 日々に新たなり

已驚人事又人身   (すでに)に人事を驚かし 又 人身を驚かす

滿城狂熱恰如醉   滿城の狂熱 (あた)かも()えるが如し

卽是文明開化春   即ち是れ 文明開化の春

 

 

明治二十六年

     癸巳(みずのとみ)一月年六十歳戯賦  

癸巳(みずのとみ)一月 年 六十歳 戯れに賦す

吾是十方世界身   吾は是れ 十方(じっぽう)世界(天下御免)()

由來到處物相親   由来(ゆらい) る処に物と(あい)しむ

人言聞去皆稱善   人の(げん) 聞き去って(みな) (ぜん)称す

耳順何期六十春   耳順(じじゅん) 何ぞ()せん 六十の春  

  【註】耳順(じじゅん)とは孔子の言で六十にして聞いたことがすべて判るの意

しかしながら、明治二十三年に開かれた国会は明治二十五年には早くも解散されて政治の混乱の年であったことを思い合わせると、已に政治の世界から離れた先生であったとしても感慨深いものではなかったかと思われます。

明治二十七年

     (きのえ)(うま)元旦試毫  (きのえ)(うま) 元旦 試毫

戯來戯去又迎年   (たわむ)れ來り 戯れ去り又 年を迎う

萬事不求祝瓦全   万事求めず ()(ぜん)(しゅく)

子女今朝試毫處   子女 今朝 (ごう)(こころ)むるの処

乃翁亦誇墨痕鮮   (だい)(おう)(われ)亦 誇る墨痕の鮮かなるを

【註】瓦全・・・瓦のように安全を保つことから何事も無く生き

       長らえるの意をいう

 

明治二十八年

     (きのと)(ひつじ)元旦    (きのと)(ひつじ)元旦

中外風光與歳遷   中外の風光 歳と(とも)(うつ)

往時回顧渺無邊   往時を回顧すれば (びょう)として(かぎり)なし

屠蘇先祝乃翁壽   屠蘇 先づ祝す(だい)(おう)(われ)(じゅ)

六十二年如萬年   六十二年は 万年の如し

 

明治二十九年

(ひのえ)(さる)元旦    (ひのえ)(さる)元旦

日出之東日沒西   日出(ひいづ)東 日沒(ひぼっ)するの西

春風萬里五雲齊   春風万里 五雲(ひと)し(ととのう)

帝京朝賀人已散   帝京の朝賀(ちょうが) (ひと) (すでに)に散ずるも

臺北臺南鷄未啼   台北台南は (にわとり)未だ()かず

  【註】日出之東  日清戦争で勝利をおさめたこと

 

明治三十年

(ひのと)(とり)元旦    (ひのと)(とり)元旦

成家三十七回春   家を()してより 三十七回の春

九子九孫獻壽人   九子九孫 (じゅ)を献ずるの人

歳酒不妨擧杯晩   歳酒(さまた)げず 杯を挙ぐることの(おそ)きを

却誇老健一番新   (かえ)って誇る 老健(ろうけん)の一番新たなるを

 

明治三十一年 

この年福澤先生は病を得て、病床に臥され事実上引退されました。没年は明治三十四年で享年六十六歳でした。この間に、自ら伝記をいくつか発行されておられますが、その一つである「福翁百話」の巻頭に七言絶句一首を載せられておられるので、これを最後に紹介致します。

 

 

翁百話巻首   題す福翁百話巻首

(明治三十年)

一面眞相一面空   一面は眞相 一面は(くう)

人間萬事邈無窮   人間(じんかん)世の中万事 (ばく)として(きわま)りなし

多言話去君休笑   多言(たげん) 話し去るも (きみ)(わら)うを()めよ

亦是先生百戯中   (また)是れ 先生 百戯(ひゃくぎ)(うち)

 

以上の如く毎年ということではありませんでしたが、元旦又除夜の詩を列記させていただきました。先生の心情を勘案しながら読んでいくうちに非常に興味深く感じたことがあります。それは詩文の中で「笑」の字をしばしば使われること、又「戯に作る」と添え書きされておられることです。言いかえますと先生の詩は志を述べると共にその反面では常に自らを省みることをなされておられたのではないでしょうか。それは積極的な行動に対する「自省」の精神を漢詩の形式で表現されたものと考える次第です。

お詫びと訂正 

平成二十八年十一月作成の文章の中で福沢先生の漢詩の記載に誤りがありましたので深くお詫び申上げますと共にここに謹んで訂正させて頂きます。              (平成二十九年一月記す)               

参考資料

注一 本文中の詩は岩波書店出版「福澤諭吉全集」第二十巻に基いております。

注二 近年になって福澤諭吉協会により定期的に発行されている「福澤手帖」に京都大学、慶應義塾大学等で教鞭を取っておられる金文京先生が、詳細に論評を連載されておられます。

注三 年表 明治の頃は干支による年号表示もよく使われておりますので西暦と揃えて一覧表を作りました。

 

           

 

(お願い)お問い合わせて等は〒248-0003 神奈川県鎌倉市淨明寺6-9-15 礒野衞孝 宛にお願いします

 



 



      

    東日本大震災千八百日(五年)有感

           (平成二十八年三月十一日記)

                       礒野 衞孝 

 

激震凶災何可忘  激震(げきしん) 凶災(きょうさい) (なん)(わす)るべけんや!

喪親亡子滅家郷  (おや)(うしな)()()くして 家郷(ふるさと) (ほろ)されたり

妖魔未去五年過  妖魔(ようま)放射能(ほうしゃのう) (いま)()らずして五年(ごねん)(すぐ)るも

復旧前途思渺茫  復旧(ふっきゅう)前途(ぜんと) (おも)いは渺茫(びょうぼう)たり  

      

学童育育楽遊戲  学童(がくどう) 育育(いくいく)して 遊戯(ゆうぎ)(たの)しみ   

校舎新装通僻地  校舎(こうしゃ) 新装(しんそう)なる 僻地(へきち)(かよ)

夢裏難忘狂怒濤  ()() 忘れ難(わすれがた) (くる)おしき 怒涛(どとう) 

慈親呑海咽悲涙  ()(しん) (うみ)()まれ 悲涙(ひるい)(むせ) 

                          

盛上四尋初並軒  (つち)()こと()(ひろ)(しち)(べい) (はじ)めて(のき)(なら)べるも 

築堤五丈憚公論  五丈(ごじょう)十六(じゅうろく)(べい)築堤(ちくてい) 公論(こうろん)(はばか) 

寄寓寂寞歸郷里  寄寓(きぐう) 寂寞(せきばく)たり 郷里(きょうり)(かえ)らんとす

離散一家危復元  離散(りさん)一家(いっか)復元(ふくげん)(あや)うからん

 

再通鐵路接阡陌  再び(ふたた)(つう)鉄路(てつろ) 阡陌(せんぱく)(道路)に(せっ)

魚菜市場多少客  (ぎょ)(さい)市場(いちば)にも 多少(たしょう)(きゃく)

處處街衢上炊煙  処処(しょしょ)街衢(がいく)町々(まちまち)炊煙(すいえん)(のぼ)

得歸翁媼憩安宅  (かえ)()たり翁媼(おうおん) 安宅(あんたく)(いこ)

 

核炉覆水只防崩  (かく)() (みず)(おお)われ (ただ) (くず)るるを(ふせ)ぐのみ

鎔断必封危急凌  鎔断(ようだん)メルトダウン(かなら)ずや封じ(ふうじ) 危急(ききゅう)(しの)ぐべし

須待減衰天地理  (すべか)らく減衰(げんすい)()つべ 天地(てんち)(ことわり)なり

官民智慧正論凝  官民(かんみん)智慧(ちえい)智恵(ちえ)正論(せいろん)()らせ

 

唯刪染土不知賄  (ただ) 染土(せんど)表土(ひょうど)(けずる)(まかない)処置(しょち)()らず

亜水如何虞出海  亜水(あすい)貯水(ちょすい)如何(いかん)とす (うみ)(いづ)るを(おもんば)かる

牛歩雖然無事全  牛歩(ぎゅうほ) (しか)(いえど) (こと)()きを(まっと)うし

妖魔封地減衰待  妖魔(ようま) ()(ふう)じて 減衰(げんすい)()たん

 

断層活否杳模糊  断層(だんそう) (いき)ずくや(いな) (よう)して模糊(もこ)たり

誰確予知今古無  (たれ)予知(よち)(たしかめ)るや (きん)()()

人使天風利光熱  (ひと)天風(てんぷう)して(こう)(ねつ)(やくだ)たしめたり

核炉須絶問賢愚  (かく)() (すべか)らく()うべ 賢愚(けんぐ)()わん



四海外遊交首脳  
四海(しかい)世界(せかい)外遊(がいゆう)して首脳(しゅのう)(まじわ)

弁論壇上獨焦燥  弁論(べんろん) 壇上(だんじょう)にて(ひと)焦燥(しょうそう)たり

復興税制蓋空文  復興(ふっこう)税制(ぜいせい) (けだ)空文(くうぶん)ならん

茲在難民唯養老  (ここ)にも() 難民(なんみん) (ただ) (ろう)(やしな)うのみ

 

再蘇祭礼酔翁寛  (ふたた)祭礼(さいれい)(よみがえ)りて (すい)(おう) (くつろ)

麗舞氷盤喜極歓  (うるわ)しく()氷盤(ひょうばん) (よろこ)びは(かん)(きわ)める

挙世萬民郷土愛  ()()げて万民(ばんみん)  郷土(きょうど)(あい)

遥望遍得泰山安  (はる)かに(のぞ)(あまね)(たい)(ざん)(やすら)()んことを

 

都人遍靡宝優銀  都人(みやこびと)(あま)ねく(なび)かせ (ぎん)優る(まさるる)(たから)なり

覇道千年制丑寅  覇道(はどう) 千年(せんねん) 丑寅(うしとら)東北(とうほく)(せい)

必現聖賢東日本  (かなら)ずや(あらわ)れん (せい)(にん)(けん)(にん) 東日本(ひがしにほん)

再興何日復逢春  再興(さいこう)(いつ)() (また) (はる)()はん 








「大漢和辞典」諸橋博士の色紙


                                           礒野衞孝 
  最近、あるご縁により 諸橋博士の直筆の色紙を戴きました。(下写真参照) 
この色紙の書かれた年号の壬辰は昭和二十七年であり七十歳前後のことと思われます。先生は東京師範の他青山学院大学でも教鞭をとっておられ、ここで漢文の授業を受けた学生の中に私の従姉妹がおり、先生から直接に手渡されたものとの事です。最近になって私が漢詩をやっている事を知り、押し入れから探し出してくれました。当時まだ学生だった従姉妹はそんな大博士とは露知らず、単に漢文の一老師としか思っていなかったそうです。
しかしながらこの一家の長女は書道塾を開いており書に対する見識は十分に持っておりましたが、やはり諸橋博士の威厳さがこれは大切に保存すべきだと思わせたと推測しております。
 今あらためて博士の伝記を拝見しますと、戦後は全くの英語一辺倒の時代で普通の一学生に色紙を何枚も書いてくださるのは大変なことと思われます。
博士には若い者に托す漢字の将来への期待感がお有りであったのではないかと愚考する次第です。作詩をする身として諸橋大漢和は使わせて頂いておりますのでこの事があってから、大辞典第一巻の「序」と巻末の「跋」を読み 又、本棚に仕舞こんだ「漢字漢語談義」を再読させて頂きました。
 兼々、大漢和の出版に至る経過は見聞きしておりましたが、今あらためてこの大辞典の出版大事業の尊さを認識し、博士の生涯を掛けた情熱と、戦災で出版設備一切を失った時のお気持ち、更に戦後無から再出発され昭和三十六年に完成を見た長い年月に堪えられた情熱と精魂に感じ入りました。その間に眼疾にも耐えられて多くの方々の助力も又大変な事と推測申しあげます。
  この大漢和は正に漢字世界の金字塔でこれ以上の辞典は未曽有であり又今後も無いかと考えます。これからも大漢和をお使いになられる方々はこの「序」と「跋」をお読みくださればと思います。漢字は中国から伝来して、これから平仮名、カタカナが発明され今の日本文化が生れた訳であります。日本がアジア大陸の一部位置にある以上、漢字文化圏の国々との関係は続けて行くべきものと考えますが、旧漢字は、今は主として漢詩の世界と書道で生き残っている、と言っても過言ではありません。
  「漢字は亡びず」、併せて「漢詩も亡びず」を信念に作り続けたいと思っております。
 

 

 

 

追記

この文を書き終わりあらためて、博士の三つの詩を読み返しました。するとこの三つの詩は何かしら当時の先生の心境そのものの様に思えると感じた次第です。即ち、自ずから白髪となられて、戦災のこと、大事業の完成の気配が見え、その後に文人墨客との交流を予感され、宝剣ならぬ漢詩を後世の人に托されようとする心境を表わしているように感じました。

照鏡見白髮       鏡に照らして白髪を見る    初唐 張九齢
  宿昔靑雲志     宿(しゅく)(せき) 青雲の志
  蹉跎白髮年      蹉跎(さた)(つまづき)たり 白髪の年
  誰知明鏡裏     誰か知らん 明鏡の(うち)
  形影自相逢     形影(けいえい)(おのずか)ら 相(あわ)れまんとは

大意=唐の玄宗の宰相であったが安禄山を退けんとして挫切し退官した。
       鏡に写った白髪を見てやるせない心境をうたった。

 

 答李澣          李澣(友人の名)答う     中唐 吾応物
  林中觀易罷     林中 易を()ることを()
  溪上對鴎閑     渓上 鴎に対して(かん)なり
  楚俗饒詞客    ()(ぞく)(楚の国) 詞客 饒(多く)
  何人最往還     何人か 最も往還す

大意=蘇州で仁政を行った長官であるが、退官後の心境を友人に答えた詩。易書は読まず鴎の如く自由に詩人達と交遊
       したいと言う。

 

送朱大入秦       朱大(人名)の秦に入るを送る 盛唐 孟浩然
  遊人五陵去     遊人 五陵(長安の地名)に去り
  寶劍値千金     宝剣 値千金
  分手脱相贈     手を(わか)つときを (だっ)して相贈る
  平生一片心      平生 一片の心

 大意=孟浩年が友人を長安へ見送るに際し宝剣を送り別離を惜しんだ作。